「どうして」
それは床に仰向けに倒れていた。
いつも結わえられている長い髪はほどけて波紋のように床に広がってる。
両腕は力なく投げ出されていて少しも動く気配がない。その傍らに親友が呆然と立ち尽くしている。
嫌な予感がした。血の気が引く音と同時に体が動いた。それの元に駆け寄り体を抱き起こす。微かにだが、呼吸はしていた。
「…っ」
名を呼ぼうとしたが、彼なのか彼女なのかわからなくて言葉に詰まる。
「彼女」ならば「彼の名」を呼んでも問題ないが、もし「彼」だったら「彼女の名」で呼ぶわけにはいかない。彼は自分が彼女であることをしらない。
さらに記憶が改竄されているのか別の人間として認識している。僕がそれの顔を覗きこんでいると、それがゆっくりと目を開けた。
「…はんべえ…さま?」
その呼び方は彼女だ。
「ねね…一体何が」
「…秀吉様」
彼女は僕から視線を外すと、側に立ち尽くす親友の名を呼んだ。
「慶次を…」
ぼんやりと何も見てない目から彼女はハラハラと涙を涙を流す。その光景に息を飲んだ。
人は、こんなにも綺麗に泣けるのだろうか。
泣くと言うことは人間が持つ感情のひとつを外へさらけ出す行為だ。
心はみな複雑で色々な思いが絡み合い、ひとりでままならならくなると体が限界を訴え外部に漏れる。
外部に漏れた信号は時に他人が受け止め干渉し、制御出来なくなった心をほぐしてくれる。
涙は感情そのもので、手が加わっていない生まれたての赤子のように無垢で激しいものだ。
だから違う。彼女は泣いてなどいない。涙は流しているがその液体には感情が混ざっていない。
「慶次…」
この涙は彼女のそのものだ。直感した。彼女は彼から離れている。彼女は涙に姿を変え、流れ落ち乾いて消えてしまう。
「あの人を恨んでは…駄目…」
それは誰に向けた言葉か。言葉の前後をみれば「慶次」にかかっているが…彼女が消えることでなぜ怨恨が生じるのか。
彼と彼女の中のことは僕にはわからない。この体の中で二人が会合することがあるのだろうか。
彼女は涙を流す。彼女が目の前で消えかけているというのに現実と理解が追いつかない。
冷たいのか温かいのか重いのか軽いのかすべての感覚が今自分が彼女を支えているにも関わらず、わからない。
「ねね」
震える唇で名を紡ぐ。呼ばなければ、彼女が存在したのかすらあやふやになりそうだった。
「…半兵衛様」
彼女は姿を持たぬ自分が存在した証を刻み込むように、自分が愛した者の名を呼ぶ。声色が、耳から離れない。
口の端を上げて彼女は笑う。彼女という存在が消えるというのに、彼女は笑う。
「あの人を…お願いします」
それが彼女の最期の言葉だった。
狂っていた歯車はいつの間にか元に戻り、正しく動き始める。
その規則正しい動きをみていると、狂っていたなんて事実は初めから無かったかのようだ。
そしらぬ顔をして一定の間隔で動き続ける。
しばらくして慶次君が僕達の目の前から姿を消した。
秀吉は何も語らず歩き始めた。
僕は秀吉の隣に立ち、前を見据えた。
思いは胸にしまいこみ、僕達はそれぞれの道を―彼女だけを置き去りにして―進み始めたのだった。
最期20130308