その日はとても疲れていた。
理由は思い出せない。
ただ、その日はとても疲れていていたのだ。
ねねは両手を伸ばし秀吉の顔をつつみこむと、髪についた埃を取るような気軽さで秀吉の体を倒してしまった。
その動作があまりにも自然で、夕餉を取り少し気の緩んでいた秀吉はたやすく彼女の膝に収まってしまう。
秀吉は一瞬何が起こったのか理解できなかった。
二三度瞬きをして、膝枕をされていると理解すると急いで起き上がろうとした。しかしねねの手がそれを制する。
「ねね」
「今日のあなた様はとても疲れた顔をしていますよ」
にこりと、有無を言わせぬ--前田利家の奥方に似た--雰囲気を発しながら彼女は微笑んだ。
彼女の行動に意味のないものなどない。
それを加味したうえで、この笑みを見せられれば秀吉はもう何の抵抗もできなくなる。
起き上がるのを諦め力を抜けば、彼女はよろしいと言わんばかりに頭を撫でてきた。
手の温かさを感じると不思議と体の力が抜け、瞼が重くなる。
彼女が髪を撫でるたびに、外で身を守る為に張りつめていた緊張の糸がゆるゆると緩んでいく気がした。
この感じに覚えがある。
おだやかな風に吹かれながら、木々の枝葉の間から差し込む光を受けるあの心地よさ。
「…木漏れ日…」
秀吉を見守るような優しさ、全てを包み込むようなあたたかさが、木漏れ日の様だと秀吉は思った。
「お前は木漏れ日だな…」
えらく情緒的なことを口にしている自覚はあったが、まどろんでいるせいで恥ずかしいとは感じなかった。
ねねの前ではするすると思ったことが外に出てしまう。彼女の慈愛に秀吉は心を開いていた。
「私が木漏れ日なら、半兵衛様は月光ですね」
わかりやすい温かみはないが、そっと夜道を照らし人々を助ける淡い光。
いつも秀吉の横にいて支え助けてくれる点が、半兵衛と月光、見目の美しさや儚さ以上に似ているとねねは言った。
「…そうだな」
「そしてあなた様はカコウです」
「カコウ?聞きなれない言葉だな」
「火の光と書いて火光。ともしびです」
夜道を照らし人々を導く、小さいけれど心強い光。
「火か…」
秀吉は瞼の裏に火を思い浮かべた。それは暗闇でうねりを上げ、激しく天に向かって燃え上がる炎。
「…!」
それはねねが喩えた火とはだいぶ違うものだった。
「秀吉様?」
「ねね…火は…使いどころを間違えると害をなすぞ」
火の特性だ。ねねと秀吉がそれぞれ違う形を想像したようにきまった形が無く、
大きくも小さくもなり、悪にも善にもなる。それをねねは気付いているのだろうか。
なぜだか急に恐ろしくなった。想像の違いに、自分の気付かないところにあった何かに触れてしまった気がした。
触れてはいけない。見てはいけない。でもいつかは知ってしまう、そんなものに。
急に体が冷えていく気がして、秀吉の体がこわばる。
「ねね…」
火がうねりをあげて燃え上がり、轟音が聴覚を支配する。
目がつぶれてしまいそうな真っ赤な火のその先に、それはいた。
よく見知ったその姿。
「…俺の夢は、身分に関係なく才能のあるものが力を発揮し、皆が幸せに暮らせる世を作ることだ」
熱い空気を吸い込み喉を焼く。爛れた喉を伝って、自分の何かが這い出してくる。自分は今何を喋っている?
「身分の低い自分が…己の力で道を切り開く…それが重要であるはずだ」
にも関わらず、自分か心のどこかで力を持っている者を、力を持ちながら何もしない者に黒い感情を抱いている。
そんな感情を持つだけ虚しいと知っているくせに止まらない。
それは人間として至極当然な感情なの知れない。
「前田という力がありながら…それを厭う慶次…」
しかし誰にその感情を抱いているのか。大切なかけがえのない人に対して強く抱いてはいけないのではないのか。
自分が欲しいものをもってる友人に。
目が火で焼ける。目を開けていられない。慶次を直視できない。
「大丈夫」
ねねの手が秀吉の体を優しく撫でる。僅かに重みのある手のひらがこわばった筋肉をほぐしていく。
火の勢いが雨によって小さくなる様子に似ていると秀吉は思った。ただ害をなさない程度に小さく、小さく。
「大丈夫です。何も怖いことなどありません。何があっても私達はあなた様の味方です」
秀吉の光も闇も肯定する。小さくなった火が、人々をまた導き始める。
「自分の中にある火に怯えないで下さい」
耳を澄ませば周りは静寂。恐ろしい火はもういない。秀吉はほっと胸をなでおろした。
感情の波が引いたせいか一気に眠気が押し寄せてきた。再び目を開けることすら難しい。
「今日のあなた様はお疲れなのです」
ねねの言うとおりだ。今日はひどく疲れていて、だから恐ろしい妄想に取りつかれてしまったのだ。
明日になればまた元通りだ。ねねがいて、半兵衛がいて、慶次がいる。怖いものなど何もない。
秀吉の呼吸が徐々に穏やかになっていき、意識が夢に溶けていく。
視界が黒に染まりもう何も考えられない。
「…そうだ…」
今にも消え入りそうな声で秀吉は問う。
「お前なら…慶次を何に例える?」
「それは」
ねねが次の言葉を発する前に秀吉の意識は遠くに行ってしまっていた。
ねねは少しだけ困ったように笑うと、眉を下げ悲しげな顔をした。
「真夏の日差しです」
慶次は真夏の日差しに似ている。
恵みの光でありながらジリジリと体力を奪い、陰を濃く浮かび上がらせる光。
秀吉を無邪気すぎる心で照らし、陰の部分に気付かせ、みせつける。
「願わくば」
秀吉が己の陰に飲み込まれ、善も悪もわからぬほどに燃え上がる炎にならぬよう。
全てを焼きつく業火にならぬよう。
しかしねねの願いはその後出会う松永久秀という炎塵によって儚くも崩れ落ちる。
火と炎20120916