竹中半兵衛は読書家である。
昔から病弱で外に出ることが少なった彼にとって読書は友人のようなものだった。
最初はただの暇つぶしとして。
そのうち読む楽しみをしり周囲が歌や茶を嗜むなか彼は1人書物を読み漁った。
歌や茶は最低限の作法を知っていればよい。
それらに時間を費やすより本を読んでいたかった。
カサリと古く乾いた紙のめくる音が聞こえる。
今日も半兵衛は書斎で書物に埋もれていた。
「半兵衛様!」
半兵衛は書物から顔を上げる。自分を呼ぶ騒がしい声は庭先からだ。
半兵衛が眉間に皺を寄せてため息をつくとほぼ同時に勢いよく庭先に面した襖が開けられる。
「……まったく…来るなら正面からといつも言っているだろう?」
「あら慶次だってここから入ってくるじゃない」
「…」
半兵衛の冷ややかな視線など気にも止めず不躾な侵入者…もといねねは草履を脱いで書斎に上がる。
「この前借りした本返しにきたわ」
ねねは抱えていた紫の風呂敷を半兵衛に差し出した。
半兵衛はそれを受け取り自分の横に置く。
「ねぇまた何か貸してくれない?」
「君も大層な読者家だね」
「秀吉がいないとそんなに暇なのかい?」
「そうね。つまらないわ」
ねねと秀吉は恋仲である。
特にねねは秀吉を大層好いていて、彼の為に食事や服をこしらえ甲斐甲斐しく身の回りの世話をしていた。
その秀吉は現在戦で留守にしている。
好いた男が戦にいったのだから少しは安否を心配したり、
願掛けでもすれば可愛げがあるのに、ねねは平気な顔をしている。
不思議というか少々理解し難いと思った半兵衛がそのことについて尋ねると
「半兵衛様が落ち着いているのだから、死ぬはずがないでしょう?」
と答えた。実は全くその通りで、半兵衛は内心ひどく驚いたのだった。
「これなんかどうだい?」
「…孫子?」
「僕達の間で流行ってるんだ。兵法について書かれていてね、面白いよ」
半兵衛はねねに本を差し出す。しかし彼女は受け取ろうとはせず、じっと半兵衛を見つめた。
彼女の目はその本は自分には必要ないと語っている。半兵衛は肩をすくめ、膝の上に本を置いた。
「……君にだから言うけど…僕はきっと長くは生きれない」
半兵衛は女のように白く細い指で表紙の文字をなぞる。
「だから秀吉を支えてくれる人間が必要なんだ」
「半兵衛様のおっしゃるのは戦や政のことでしょう?私では駄目よ」
「君は聡明で腕も立つ、何より秀吉を一番大切に思ってる」
「それは半兵衛様も一緒でしょう?」
「ねね」
「駄目」
ぴしゃりと言い切る。ねねは半兵衛の膝にある本に手を伸ばすと、半兵衛の胸に押し付けた。
「秀吉様が悲しむようなことを言わないで下さい」
ねねは秀吉が悲しむことを何よりも嫌った。
それは半兵衛も同じで、慶次も同じだった。
三人の中心は秀吉。
秀吉の幸せを三人は誰よりも願っていた。
そして誰が言い始めたわけでもなく、
半兵衛は秀吉の片腕として。
ねねは秀吉の連れ合いとして。
慶次は秀吉の友人として。
それぞれが秀吉を支えていこうと決めていたのだ。
「…やれやれ、君は僕に死ぬなと言うのかい?」
孫子20110320