京都の宿屋街を、薬箱を携えた小柄な老人が歩いている。
旅の者とは明らかに違う町医者と言った体裁の老人は、賑やかな表通りを奥へと抜け、
ある旅籠屋の裏口の戸を叩いた。ガラリと戸が開き、女が顔を出す。
「まあ先生。お疲れ様です。さあさああがって下さいな」
足元には気をつけて下さいねと女は老人に言うと、荷物を預かり中へ招き入れる。
「先生ったら表からいらして下さって構わないのに…」
「いやいや客商売の所に医者が堂々と行くのは不味いでしょう」
「そんなこと気にしませんよ」
二人は世間話をしながら階段を上っていく。
階段を上ると長い廊下が続いており、左右に客室がいくつも連なっている。
今は客がいないのでとても静かだ。
二人は廊下を奥へ奥へと進み、突き当たりの部屋の前に辿り着いた。
女は部屋には入らず、老人によろしくお願いしますと言って去ってしまった。
女が部屋に入らないのは、その部屋に連泊している人物が出来るだけ一人にしておいて欲しいというの要望があったからだ。
必要最低限、食事の世話等とこの老人訪問を除いて、誰も入室しないようにしている。
「入っていいかい?」
老人は襖の向こうの人物に声をかける。しかし返事はない。
廊下を歩く音で老人達の存在には気付いているはずだ。老人は躊躇いもなく襖を開ける。
中は六畳半の決して広くはない客室。日当たりはあまりよくないが窓から空がよく見える。
部屋の左側には小さな箪笥。右側には行李と机。それらに挟まれる形で布団が敷いてある。
「慶ちゃん調子はどうだい?」
布団から上体を起こし、着物を羽織っている人物はそう呼ばれた。
「相変わらずだよ」
慶ちゃん。もとい前田慶次はさらりと言い流す。
いつも身に纏っている豪華絢爛な衣装や髪飾りは無く、白い寝間着に灰色の羽織り。
髪は結わえられいない。医者は慶次の傍らに腰を下ろす。
「薬は効いてるかい?」
「うん。おかげで楽だよ」
やわらかく笑う慶次を見て医者は僅かに眉をひそめた。『良くない』。
慶次は顔色が悪いわけでも、痩せたわけでもない。
しかし医者の目には今の慶次がとても不自然に映った。
それは医者としての経験からくるもので、その正体を医者は知っている。
「…家には帰らないのかい?」
医者の問いに慶次は軽い調子で「考えてないなあ」と応えた。
「帰ろうにも、今の俺には無理だよ」
前髪が揺れる。髪と同じ色のふたつの瞳は、瞳孔が開いたままだった。
慶次の両目は何も映さない。色も形も光も、何も捉えられない。失明。
ほんの些細な事故だった。幼子が階段から落ちそうになったのを助けようと
して自分が階段から落ちてしまったのだ。
その時打ち所が悪かったのか、慶次の色鮮やかな世界は失われた。
「お金も払っちゃったし俺はここから動く気はないよ。あ、散歩くらいはいくけどね!」
「医者としてもそのくらいはしてもらんとなあ」
2つの笑い声が部屋に響く。
「特に困ったことがないなら同じ薬出しておくよ」
「うん。遠いのにわざわざ通ってもらって悪いね」
「患者がいればどこにでも飛んでいきますよ。それじゃあ慶ちゃんまたね」
医者は薬箱から数日分の薬を取り出し慶次の傍らに置くと、部屋を出ていった。
ゆっくりとした足音が少しずつ遠くなりまた静寂が訪れる。
「…」
慶次は小さく息を吐く。少しだけ、緊張していた。
世界が真っ暗になってから、日に日に頭痛の回数が増え、手足の痺れが出始めた。
今日の医者の雰囲気や些細な言葉が、人知れず抱えていた慶次の不安を確信に変えたのだった。
ああ早くしなくては。慶次は手を握りしめる。
その時、ヒュウッと冷たく鋭い風が吹いた。
慶次は風を感じた所に顔を向ける。窓とは正反対のそこに、いつの間にか生き物の気配があった。
「…誰?」
返事はない。だが確かに生き物の気配がする。人の形をした生き物の気配が。
「………ちょうど良かった」
慶次は少し考えたあと、もぞもぞと布団から這い出た。
左手を床に、右手は軽く前に出し、ゆっくりと何かを探すように部屋の中を這う。
コツン。
慶次の手に何か堅いものが当たる。
両手でそれを机だと確認すると、慶次は気配のする方に顔を向けた。
「字書ける?多分ここに紙と墨があるはずだからちょっと頼まれて欲しいんだ」
慶次の言葉にやはり返事はない。しかし気配は静かに慶次の傍らに腰を下ろした。
「ありがとう。自分でやろうにも目は見えないし、手は震えるしで困ってたんだ」
慶次がそう言うと気配は静かに慶次の手首を掴み、手のひらに指をなぞり始めた。
「喋らないんだね」
慶次は手のひらになぞられる形を感じ取る。短く最低限の『言葉』。
「手紙を…書いて欲しいんだ」
部屋から慶次の声と筆が紙を走る音が淡々と聞こえる。
気配が現れてからだいぶ時間が経っていた。
慶次が書きやすいように気を使いながらしゃべっていたことを差し引いても長い。
当然だ。床には様々な知人に当てられた手紙が所狭しと置かれていた。
ざっと見ても三十…いや四十はある。
「えーと…これで全部かな」
慶次は頭の中で送り主の顔を思い浮かべながら指を折っていく。
「うん、これで全部だ」
その言葉と同時にコトリと筆を置く音がした。
「長い間付き合わせちゃってごめんよ」
気配は首を横に振ったが慶次にはわからない。
役目を終えたと思った気配はこの場を去ろうと立ち上がろうとした。
慶次はそれに気付き慌てて引き止める。
「ちょっ…ちょっと待ってくれよ!手伝ってくれたお礼くらいさせて!」
気配を無理矢理座らせると慶次はまたもぞもぞと部屋を這い、小さな箪笥へと辿り着く。
いくつもの引き出しを手で触り、目的の引き出しを探し出すと中に入っていた物を取り出した。
「これ。良かったら貰ってくれよ」
気配は動かない。どうしていいのかわからず動けないのかもしれない。
それもそうだ。慶次が手にしていたのは簪。漆塗りの艶やかな黒に、金色の梅が描かれている。
「挿すのもよし、売るのもよし、捨てるのもよし」
お礼だから。そう言って簪を投げた。
次の瞬間、宙を舞う簪が気配と共に消えた。部屋に残された慶次は小さく笑う。
「…助かったよ」
落葉で真っ赤になった庭に面した縁側に、1人の老人が座していた。
そこへ茶と菓子を乗せた盆を持った青年が静かにやってくる。
慣れた手つきで給仕をしていると老人がぽつりと呟いた。
「前田の小僧がな、死んだそうだ」
手には前田の当主から送られてきたばかりの文が握られていた。
「数日前に小僧から遺言めいた文が届いたんじゃが…まさか本当に死ぬとは」
若者が年老いた自分より先に逝ってどうするのだ。老人は声を絞り出すように呟いた。
青年はそれをただ静かに聞いている。
「…お主に行方を探りにいかせた時は生きてると聞いて安心しておったのにな…」
老人にとって故人は息子のような孫のような、優しい存在だった。それが死んだ。
老人の悲しみは計り知れない。
「……」
うなだれる老人をぼんやりと青年は見つめる。
もし、老人が先日読んだという文を代筆したのがその青年だと知ったらどんな顔をするだろう。
命じられたこと以外はしない、命じられたことしか出来ない青年は何も言わない。
給仕を終えその場を静かに去る。
長い廊下を歩きながら青年は、懐から簪を取り出した。お礼だと言われて投げられた簪。
今は形見と言った方が正しいのだろうか。
あの時は素直に受け取ってしまったが、使い道があるわけもなく正直なところ持て余していた。
捨てるのは気が引ける。かと言って男の自分には必要ない。
人にあげるとしてもそんな知り合いはいない。
質に入れて金に換えるのは何か違う気がした。
この簪の有意義な使い道を考えているうちに半月が経ち、今に至る。
男の訃報を聞き、いよいよこの櫛の在り方を考えなくてはいけない気持ちになった。
他人から見れば「風魔小太郎らしくない」と笑うだろう。全くその通りだ。
青年は簪を色々な角度から眺め、持ち主だった男の人柄が移ったのではないかと思った。
「…」
青年はそのまま屋敷を出て、町の方へ向かった。
前田慶次の墓は加賀のある山にひっそりと立っている。
小さな墓石が建っているだけのとても簡素な物だ。
これは慶次たっての願いだった。
町を見下ろせて、出来るだけ静かで一目につかない場所に、知ってる人しかわからないような作りの墓を。
叔父叔母は慶次が彼らに宛てた手紙通りにした。
花を供えるにもひと苦労するその場所に青年は舞い降りた。
手紙を書いた本人で、忍びである彼には墓の場所を探し出すのは難しいことではなかったようだ。
墓は山の頂上付近にあり、そこは青い空も山も街も見渡せる場所だった。
墓の周りはわざわざ木を切って、陽の光が入ってくるようになっている。
青年は墓前に立ち、じっと墓石を見つめる。思い出すのは墓の主。やわらかく笑う不思議な男。
お礼だと、金蒔絵の簪を渡してきた。
簪は、本来ならあの男の髪に挿されるはずだったろう。
見れば見るほど、あの男の為に誂(あつら)えた物に視えたのだ。
だが、骨だけになってしまった男には簪などもう必要ない。
今更返しても何の役にもならない。だが青年は返したいと思った。
これはあの男が持つべきものであり、あの男の所にあるべきだと。だから考えた。
青年は懐から小さな袋を取り出した。
手のひらに収まってしまうそれには何かがぎっしりと詰まっている。
簪は返せない、死んだ彼が必要のないものだから、ならば必要なものに変えてしまえばいい。
青年は小袋の中身を墓の周りにバラまいた。
ばらまかれたそれは簪を質に入れた金で買った花の種。
種は多年草で特別世話をしなくても成長するものらしい。
故人に簪は必要ないが、墓には花が必要だろう。
きっと毎年たくさんの花が、彼の周りに咲いてくれるはずだ。
モグラ クチナシ ハナノタネ/20100726
モグラ→盲目慶次/クチナシ→風魔/ハナノタネ→簪