雨も降っていないのに地面は濡れていた。
肉の焼ける臭いが鼻を刺激する。
くさいとは思わなかった。
辺りを見渡すと立っている者はおらず皆地面に寝転んで動かない。
ただ一人だけ、目の前に見知らぬ男が小さく縮こまって震えながら地面に伏せている。
それを自分はぼんやりと見つめていた。何故、こんな所に立っているのだろう。
記憶がごっそりと抜け落ちたように何も思い出せない。真っ白だ。
片手に持った槍から滴が落ちる。何故か音は聞こえなかった。
耳がおかしくなってしまったのだろうか。それに胸が苦しい。
息が上手く出来ない。自分は本当に一体どうしてしまったのだろう。
「幸村っ…!」
遠くの方から駆け寄ってくる人がいた。朱色の長刀に派手やかな服装、自分はアレを知っている。
「幸っ」
名を呼ばれ近づいたと思ったらいきなり両肩を掴まれた。よほど急いで来たのか肩で息をしている。
顔を見ればその表情は今にも泣き出しそうだった。
しきりに口をぱくぱくと動かして何かを言っているが上手く聞き取れない。
掴まれた肩が痛かった。
「とにかく逃げるぞ!」
逃げる。唯一聞き取れた言葉の意味は理解できなかった。
逃げる。一体誰から、何処へ逃げるというのだろうか。
逃げなくても自分には戻る場所が、帰る場所があるのに。
帰る場所。
炎のように眩しい赤、掲げた旗印、自分が尊敬してやまないあの、
「なにぼーっとしてんだ!しっかりしろ!」
「お館様…」
記憶が堰を切ったように蘇る。
思い出した。
自分の肩を掴む手を払い、まだ地面にひれ伏している男の前に立つ。
男は気がついていないのかこちらを見ない。
槍の柄をぎゅううと自分の爪が肉に食い込むのも構わず強く握り締めた。
次の瞬間、渾身の力を込めて振り下ろす。
バシィ!下ろしたと思った槍は背後から伸びてきた手に叩き落され無残に地面に転がる。
驚く間もなくそのまま体を強く抱きすくめられた。
「前田殿、放してくだされ!」
「駄目だ!今放したらアンタはこの人を殺す!それだけは駄目だ!」
「この者はお館様を殺したのだ!」
「それでも駄目だ!」
「しかしっ」
「幸村!」
ふわりと肩に自分のものではない髪と体温が触れる。人間の温もり。
「幸村、なぁ幸村聞いてくれ。こんな時代だから命を取ったり取られたりすることは当たり前のように行なわれているけどな
 その命ひとつひとつには意思があって生活があって想う人があるんだ。どんな理由があっても憎しみに駆られて
 奪っていいものじゃない。だから俺は目の前で奪われようとしている命があれば全力で助けたい。
 自己満足だと罵られてもかまわない。ただ忘れないでくれ。人が死ぬ、それはとても悲しいこと な  ん  だ  」





























肩に、のしかかる温もりがえらく重く感じた。
体が石になったようにまったく動かない。
辛うじて動く眼球を地面に向けると、そこには震える男。
憎くて憎くて仕方がないはずなのに、今はただその男が小さく見えるだけだ。
途端に、体から何かがすっと抜けた。
いままで遠くにしか聞こえなかった音がはっきりと聞こえる。
体に纏わりつく血の臭いが気持ち悪い。
そんな臭いが立ちこめる地面に這いつくばる男のなんと滑稽なことか。
ああ無常。
刹那、胸の辺りが焼けるように熱くなって、それがあまりにも痛いものだから、声を上げてないた。



戦場20061015