夢を見た。朧月が浮かぶ夜。俺は朧月独特の淡い光に照らされながら草原の中に立っていた。辺りは変に静かで地に根を生やす草や木々のざわめく音もしない(生き物の気配すらないじゃねーか)独り――。そんな言葉が頭の端をかすめた途端、背筋が寒くなった。それは遥か昔、熱にうなされながら心細さに伸ばした手が空(くう)を切った時の感覚に似ていた。その感覚を恐怖と呼ぶ。俺は静かに湧き出してきた過去という幻影を振りはらうように歩を進めた。風のない空間は閉塞感を生みだし、空気が体に重く纏わりついて息苦しい。気がつけば目の前には見たこともない光景が広がっていた。狂い咲く大きな桜が小さな池を半円を描くように数本並んでいる。不思議なことに桜は自ら光を発し、暗闇から浮き出ていた。さてこんな場所にこんなものがあっただろうか。この辺一帯の土地は自分の庭の様に知り尽くしている。桜の木があれば気がついていそうなものだ(…別の土地に迷いこむほど遠くには来ていないはず…)頭の中で自分が考えられる様々な考えをめぐらせながらニ三歩池に近づくと池の中に何かが浮いているのが見えた。白のような桜のような薄紫のような不思議な色をしているそれが人の形をしているのに気がつくまでそう時間はかからなかった。それは仰向けになってぷかぷかと浮いている。不思議なことに波立つ池の中心から少しも動かない。ただ水面に広がる茶色の髪がクラゲのように波にあわせて揺れているだけだ。片方しかない目を凝らして人物の顔をみればそれは眠っているようにも死んでいるようにもみえた(白い…)呑気にそんなことを考える。これがもし溺れて気を失っているのならいますぐにでも飛び込んで救出すべきだが心の片隅が、これ以上踏み入れてはいけないと言っている。
「そうだアンタはここにきちゃいけねぇ」
空間が震えた。声の主は先ほどまで池に浮いていた人物。風もないのにハラハラと散っていく桜の花弁を身に纏ったその人物はどういう原理なのか水面に浮かびながら上半身だけ起してこちらを見ていた。射抜かれてしまいそうなほど真っ直ぐな視線が痛い。ポタポタと髪から滴り落ちる水が水面に落ちる。その音が妙に耳に障った。なぜだか急に喉が渇いてきてガラにもなくごくりと唾を飲み込む。(…)足の先が冷たくなっていくのを感じた。
それからどのくらいの時間がたっただろうか。俺とその人物は一言も発することなく動きもせず見つめあっていた。感覚が狂ってきて時間がわからない。しかし目の前の人物から時折思い出したように滴り落ちる水がその時間の長さを示していた。それ程長い時間誰かと見つめあうのは真剣勝負以外では初めてだ。
「…この池の名前は」
先に動いたのは相手のほうだった。
「いや、この水溜りはカコっていうんだ」
見た目は綺麗だが一度足を踏み入れたら最後、底なし沼みたいにどんどん沈んで中々出られないとその人物はいう。カコーつまり過去。時には美しく甘い幻想をみせ時には次へと進む力を与え、時には心を斬りつける恐怖になる。誰もが生きている間必ず蓄積してゆくソレ。冷たさを通り越して痺れてきた自分の足元を見やる。するとそこには先ほど振り払ってきたあの恐怖がいつの間にか足にねっとりと絡みついていた。
「!」
「……きっとそれがアンタをここに連れてきたんだな」
驚愕する俺とは対照的に平静な口調の人物は水面についていた手を俺の方にかざす。
「あんたには深い闇がある。だけどそれを隠してしまうくらいの大きな目標と先に進む力を持ってる。だからまだこんな所にきちゃいけない、そもそも誰かに連れられてくる場所じゃない」
そう、男が言い終わると同時に桜が一斉に花弁を激しく散らし始め、合わせるように大小のつむじ風がいくつも起こり目の前が桜色になった。(…!)桜によって全てが遮られる。空も、池の中の人物も、自分の足さえ見えなくなる。(何なんだこれは!)
「ひとつ貸しな」
風の音に紛れて声が聞こえた。



気がつくと俺は朧月に照らされる薄暗い草原に一人立っていた。
「………」
固まっている体をゆっくりと動かし辺りを見回す。目に入るのはひたすら続く草原だけで先ほどまで見ていたものは全て嘘だったかのように消え去っていた。
「…狸か狐に騙されたか」
それとも夢か。狂い咲く桜、変わった名の池、纏わりつく闇、そしてあの人物。全て自分の頭の中で作り出した幻影?(最近は戦続きだったからな)夢ならば、疲れているのかもしれない。だが何故か、心が妙に落ち着いて穏やかになった気がする。胸につかえていたシコリのようなものがが取れた感覚。体が軽い。辺りは相変わらず不自然なくらい静かなのに心がざわめくことはなく自分が恐れているものが姿を現さない。何かが違う。『ひとつ貸しな』あの人物の言葉が頭をよぎった。
「………」








「無題」20060923